整形外科からの帰り道、あの日が、私が、何も考えずに普通に歩けた最後の日だったんだな、と考えたら、涙が出てきた。
昨年のお盆明け、最初の出社日のお昼休みに、私は足首を捻挫した。何もない平らな床で、捻挫する要素など、どこにもなかった。その直前まで、スマホを見ていて、来週は、どこか走りに行こうかな、なんて考えていたのを、はっきりと覚えている。いつもと同じように、デスクでコンビニご飯を食べて、そのゴミを捨てにいく。変わったことは何もしていないのに、デスクからゴミ箱までの間で、体がぐらっとして、捻挫してしまったのだ。あの一歩のせいで、私の人生は、大きく変えられてしまった。
捻挫をした時は、ランニングを始めてちょうど半年くらい経った頃だった。走ることが苦手で、それでも、ホノルルハーフマラソンに出る、という夢を叶えようと、思い切って、先生に教えてもらうことにしたのだ。最初はもう、300mくらいしか走れなくて、ハーフマラソンなんて夢のまた夢だと思っていたけれど、少しずつ、少しずつ、距離を伸ばして、夏には、5キロくらい、続けて走れるようになっていたのだった。秋には、横浜マラソン7キロの部に出場することも決めていて、運動音痴、走るの苦手女子の私、結構頑張ってるじゃないか、と、ひそかに自信もつけていた。このままいけば、7キロも走れるし、ハーフマラソンもきっと走れる! そんな気持ちで、調子に乗っていたのかもしれない。だから、捻挫なんてしてしまったのだ。私はいつも、うまく行きそうだと思うと、ダメになってしまう。高校入試で、一番行きたかった高校に行けなかったのは、その最たる例だ。
今回の捻挫も、やっぱり、そうだった。全治8週間と言われていたので、何とか間に合うかもと、少しは期待していたけれど、全然良くなる兆しがなかった。走るどころか、歩くのさえままならない状態が続いていた。横浜マラソンの1週間前、試しに、走ろうとしてみたが、とても無理だった。仕方なく、横浜マラソンは欠場することになったのだった。
こんなに治らないのはおかしい。そう思って、病院を、池袋にある整形外科に変えた。先生はとても親切で、まめにリハビリに来るように言ってくれた。そのおかげで、冬になる頃には、ようやく、普通っぽく歩けるようになってきたのだった。
春になって、ランニングも再開した。一度は、5キロは走れるようになっていたとはいえ、久しぶりに走るのはやっぱりきつかった。2キロ、2.5キロ、3キロと刻んで、少しずつ体を慣らしていった。夏になって、ようやく最近、5キロを超えて走れるようになってきて、今年の横浜マラソンは出られるかもしれないな、と思い始めていたのに、今度は、膝が痛くなってしまったのだ。
最初は小さな違和感だった。ランニングの後だったから、ちょっと捻ったのかな程度だった。ところが、日にちが経つにつれて、痛みがひどくなってきて、歩くのが辛く、特に階段を降りる時が辛かった。これはもう、先生に見てもらったほうがいい。池袋の親切な先生のところへ、また行く羽目になった。
事態は思ったよりも悪かった。膝の骨が少し、変になっているらしい。ランニングは関係なくて、年齢的なものらしい。ランニングは1ヶ月くらい、お休みしてくださいとのこと。今年も8月のこの時期に、ランニングできなくなるなんて……。先生は、また走れるようになりますよ、と言ってくれたけれど、私は泣きたい気持ちだった。
捻挫から回復して、普通っぽく歩けるようになったけれど、捻挫前のようには戻れなかった。さらに今回、膝も痛めてしまって、また、歩き方がおかしくなってしまった。何も考えずに、普通に歩けることは、きっと、私にはもうないのだ。どうして、私が頑張ろうって思うと、いつも、うまくいかないのだろう。そう考えながら、ずっと下を向いて歩いていた。
ふと見上げると、そこには、池袋西武があった。でも、いつもと何か違う。いつもかかっている、垂れ幕がないのだった。そういえば、ストライキで今日は休業だって、ニュースで言っていたことを思い出した。池袋西武も、いずれ、無くなってしまうのだろうか、と寂しい気持ちになると同時に気づいた。街は、変わっていくのだ。そして、人も変わっていくのだ。この世界は、変わっていくものばかりなのだと。
全てのものが、ずっと同じではいられない。変わっていくことに心を囚われて、どうして変わってしまったのだろうと嘆いたって、どうにかなるわけではないのだ。私だけじゃない。きっと、みんな、変わっていくことを受け入れて、生きている。私はもう、以前のように、何も考えずに、普通に歩くことはできないかもしれない。泣いてもいいけど、思いきり泣いたら、それを受け入れよう。変わっていくことこそが、生きているということなのだから。