私は少しの間、宇宙人と暮らしていたことがある。そいつは、私との暮らしの中で、掃除、洗濯、食材の買い出し、朝食、夕食の準備をはじめ、日常生活のさまざまなことを、1人で黙々と行っていたが、時々、私に冷ややかな視線を送っていた。短い間であったが、その視線に耐えながら過ごす日々は、とても辛いものだった。
そんな日々が始まるきっかけは、夏のある日、私が右足首の捻挫をしたことだった。生まれて初めての怪我だった。足首から下がパンパンに腫れ上がっている。病院に行くと、全治6〜8週間とのこと。ギプスで足首を固定され、包帯でぐるぐる巻きにされた。松葉杖を使うように言われ、歩き方も教わった。松葉杖は、捻挫をしていない左の脇に抱え、右足は斜め前に出して歩く。不格好で、ゆっくりしか歩けないけど、仕方がない。そんな状態だったので、会社には、タクシーで通勤していた。この頃、夫はとても優しく接してくれた。家事全般はもちろんのこと、細かなこともすべて、助けてくれた。立って靴を履くことが出来なかったので、私が靴を履く度に、椅子を持ってきてくれたり、家の中ですら歩くのが億劫だったので、隣の部屋にある本を持ってきたりしてくれた。私はほとんど動かずに、ただ、あれして、これして、と言うだけの女王様のようだった。それでも文句ひとつ言わずに、世話をしてくれた。
ところが、だ。3週間ほど経って、松葉杖が取れて、足首の固定が外れると、夫の様子が少しずつ変わっていった。依然として、松葉杖を使っていたときと同じ歩き方で、ゆっくりと歩いていた私に対して、夫は、もっと速く歩けないのか? 普通に歩けないのか? と度々言うようになった。もう松葉杖も足首の固定もないのだから、どうしてそんな変な歩き方をするのか? 君は怠けている、と夫は私を責めた。とんでもない! 私は精一杯歩いている。痛みもあるし、まだ治っていないから、速く歩けないし、普通に歩けない、と私は言い返していた。すると夫は、治っていないから普通に歩けないのではない、痛くても、治るために普通に歩くのだ、と言ってきて、話は堂々巡りだった。そのうちそんなやりとりにも疲れたのか、私は夫に無視されるようになった。日常生活については、相変わらず助けてくれるが、全く会話がなくなった。そして夫は、たまに私の歩き方を見ては、冷ややかな視線を送ってきた。痛みが引かない足の状態に加えて、この仕打ちだ。私だって、早く、普通に歩けるようになりたい。一番辛い思いをしているのは私なのに、どうしてわかってくれないのだ、この人は。もう、心底がっかりした。悔しくて悲しくて、仕方がない。わかってくれない夫のことを、宇宙人みたいだ、と感じるようになった。
季節は夏から秋になった。最初に病院で言われた、8週間が過ぎても、足の痛みは変わらず、歩き方も良くなる兆しがなかった。夫はまだ宇宙人のままで、私は、もう一生まともに歩けず、夫からも無視され続けるのかと思って、落ち込んでいた。捻挫のせいで私の人生めちゃめちゃだ。あの時、捻挫なんてしなければ……。怪我すること自体が初めての私は、怪我したことを受け入れられずにいた。
夫の方でも、相当ストレスが溜まっていたのだろう。美容院で、美容師さんに私のことを愚痴ったらしい。そこで、美容師さんから、自分が通っている病院を教えてもらったそうだ。実は私も同じ美容師さんに担当してもらっているので、私のことをかわいそうに思ったのかもしれない。
その頃行っていた病院では、全然良くならないと感じていた私は、教えてもらった病院に行くことにした。医者は、捻挫はもう治っている、周りの筋肉が硬くなっているだけだから、リハビリをしっかりすれば大丈夫、と言った。それまでは、捻挫が治っているかどうか、はっきり言ってもらえていなかったので、普通に歩いたら、悪化するのではと思って、変な歩き方しかできなかった。捻挫は治っている、医者がそう言ってくれたお陰で、私はようやく、今までの変な歩き方を改めて、普通に歩く努力ができるようになった。そんな私の姿を見て、夫も少しずつ、口を聞いてくれるようになり、宇宙人と暮らしているような気分も薄れてきた。
冬になり、足の痛みは少しあるものの、以前とほとんど同じように歩けるようになった頃、美容院に行った。美容師さんに、病院を教えてもらったお礼を言う。その方は学生時代、バスケットボールをやっていて、捻挫をよくしていたそうだ。松葉杖や足首の固定が取れたら、治るために、痛くても普通に歩いていたという。あれ? 夫と同じことを言っている? 治っていないから普通に歩けない、と思っていた私の方がおかしいのかな、という考えが、ちらりと頭を掠めた。
それから気になって、会社の同僚や親戚に、怪我をした話を聞いてみた。皆、口を揃えて、同じことを言っていた。腕を骨折した人も、両足のつま先を捻挫した人も、松葉杖や固定が取れたら、痛くても、普通に動かしていたよ、と。私のように、痛くて治っていないから、普通に歩けない、と思っている人は、1人もいなかった。
周りの人から話を聞いて、ようやく私は、自分の方が宇宙人だったことに気がついた。夫は、他の人と同じことを言っていたのに、私はその考えを全く理解できず、宇宙人のようだと感じていたが、きっと、夫や他の人から見れば、私の方が宇宙人だろう。
あんなに意固地に自分の考えを押し通していた自分が恥ずかしい。せめて今後は、夫の考えをきちんと聞くようにしたいと思う。