「じゃあ、この先生にお願いするよ。いいね?」
ある年の正月の朝、夫は私にそう言った。
「お願いします。いつか、ホノルル・ハーフ・マラソンに出場してみたいって思ってたから。ちゃんとした先生に習った方が、私もいいと思う」
私はそう言いながらも、内心、不安を抱えていた。なにしろ、生まれてから40数年間、運動というものに、ほとんど縁のない人生を送ってきたからだ。子供の頃から、体を動かすことが苦手で、小学生の頃からずっと、体育の授業は苦痛でしかなかった。特に冬は、校庭のトラックを何周かする持久走が行われて、私はいつも、周回遅れで走っていた。すでに走り終わったクラスメイトたちが、なんとなくこちらを見ていて、恥ずかしくて仕方がなかった。ただでさえ、走ることが苦手で、人から見られたくないのに、見られてしまう。学生時代の私にとって、走ることはまるで罰ゲームのようだった。
ところが、10年くらい前だろうか、ホノルルマラソンの映像をテレビで観たとき、皆がとても楽しそうに走っていて、私もこの人たちの輪の中に入ってみたい、と思ってしまったのだ。調べてみると、ホノルルには、ハーフマラソンもあるという。いいな、出場してみたいな、と思ったが、こんな私のスペックには、相応しくない夢だと思い、誰にも言わないで、その気持ちは、ずっと心の中にしまってあった。
それなのに、ある年の正月、1年の目標について夫と話しているときに、ぽろっと口から、出てしまったのだ。「いつか、ホノルル・ハーフマラソンに出場してみたい」と。すると夫は、「自分も一緒に出場する」と言い出した。さらに、「独学でやるより、きちんと習った方が良い」と言いながら、スマホで、ランニングを教えてくれる先生を探し始めた。そして、あっという間に、初心者に丁寧に教えてくれそうな先生を見つけて、私の気持ちが変わらないことを確認すると、テキパキと手続きを進めてしまった。レッスン日は、2月の3連休の中日に決まった。
これはもう、後には引けない、と私は思った。夫は一緒にやるというし、先生まで決まってしまった。走ることが苦手で、不安しかないけど、もう、覚悟を決めてやるしかない。それからの週末は、レッスンに備えて、ランニング用品を買い揃えるので、大忙しだった。
とうとう、レッスンの日がやってきた。レッスン場所は、多くのランナーが集まる、皇居。先生から、楽に長い距離を走るコツを教えてもらう。やってみるが、なかなか難しい。隣の夫を見ると、もう出来ているふうだ。これだから、運動神経の良い人はいいな、と羨ましい。私は全然うまく出来ないのに、レッスンの最後に、皇居1周5km、走ることになってしまった。先生と夫と私の3人で走り始めたが、途中で夫は先に行ってしまい、私は1kmも走れなかった。残りは全部、先生と一緒に歩いた。ゴール地点では、5kmを走り終えた夫が待っていた。最初からうまくできる夫と比べて、情けない気持ちになった。
ホノルル・ハーフマラソン出場への道のりは遠そうだ、と思いながら、私は先生に、「どれくらい練習すれば、皇居1周出来ますか?」と聞いてみた。すると、先生は、「半年が目標ですね」と答えた。そして、今後は、週1回で良いので、距離でなくて、時間で区切って、走ると歩くを繰り返す、例えば、3分走ったら3分歩くというような練習をして下さい、とアドバイスしてくれた。私は当面の目標を、半年後に皇居1周することに決めた。
レッスンから1週間後、家の近くで、初めて練習をした。先生に言われた通り、走ると歩くを何回か繰り返した。最初は3分走り続けることさえ、辛かったが、繰り返しているうちに、少しずつ、楽になっていった。終わった後は、意外としんどくなかったので、これなら、続けられそうだと思った。1ヶ月ほど、週末ごとに、同じ練習をしていたら、夫は、「もうその練習はやめて、距離を延ばしたら」と言ってきた。私は、「先生のアドバイスに従っているだけだ」と言うと、夫は、「それではいつまで経っても、皇居1周なんて出来ない」と言い出した。確かに、それは夫の言う通りだが、私は、「長い距離を走ると苦しいから走りたくない、あなたは、先生に教えてもらったコツを掴んで、楽々走ってるんでしょ?」と言うと、「自分だって苦しいけど走っているんだ」と夫は言った。私は、驚いた。楽々走っているように見えるこの人も、走ってるときは苦しいんだ。それなら、私もとりあえず走れるところまで、走ってみよう、と1度、試してみることにした。
4月、桜の咲く頃、初めて3分以上走った。意外に走れるかもしれない、と思ったのも束の間、少し経つと、もう足が疲れてしまって、歩きたくなってしまう。でも、まだ走れる、がんばれ! と自分で自分を励ましながら、限界まで走り続けた。結果、2km続けて走ることができた。この私が、2kmも走れるなんて、と大きな達成感を感じた。それから毎週欠かさず、練習を行った。目標は、前の週よりも長い距離を走ること。すると、3km、4km、少しずつ、長い距離が走れるようになっていった。
6月の終わり、皇居1周に挑戦する日がやって来た。まだ6月なのに、ものすごく暑い日だった。今日は必ず、皇居1周する! という強い気持ちでスタートする。前回走るのをやめたところは、通りすぎることができて、自分の成長を感じて嬉しくなったが、そこからまだ4kmも残っている。暑さのせいもあり、息苦しくて、足も疲れて、もう歩きたくなるが、気持ちで走り続ける。レッスンのときは、先生と話しながら歩いていたが、歩きと走りでは見える景色が全然、違う。息を切らしながら、頑張って走っていると、とうとうゴールが見えてきた。最後の力を振り絞って、やっと、ゴールにたどり着いた。
当面の目標であった、皇居1周を達成することができた。しかも、半年もかからずに。
もう走ることは、罰ゲームでなくなった。練習すればするほど、長く走れるようになる。私は、走ることに、やればやるほど上手になる、ゲームのような楽しさを見つけた。 ホノルル・ハーフマラソンに出場したいという、誰にも言えなかった夢だが、皇居1周出来た今となってはもう、スペック不相応な夢ではない。夢が叶うまで、まだまだ、練習は続く。